近年、臨床や研究だけでなく、医療システムや医療従事者の生活様式まで、日本の医療界のあらゆるものが、欧米諸国を見本としています。理想の医師像として求められるものに関しても、何かと北米や欧州、豪州といった国々を真似ようとしているわけですが、そのためにはその違いを理解しなければなりません。
そこで今回は、医師のスタンスやどのような医師が評価されるのかについて、日豪の違いに焦点をあてて考えてみたいと思います。
(古き良き?)日本の医師像:聖職者としての医師
オーストラリアでの臨床医のスタンスを見る前に、日本での(伝統的な)働き方からみてみましょう。日本では、古くから医師は
- できる限り病院に残って働く。
- 患者のためなら何時でも駆けつける。
- 上司よりも先に帰らない。
- やる気は時間外労働で示す。
といった働き方が理想的とされてきました。私はハーバード大学院在籍中、倫理の授業でこのテーマを扱って最終試験となるペーパーを書いたので少々詳しいのですが、これは医師が「聖職者」や「修道士(monk)」としてのスタンスであることを前提に、日本特有の価値観を上乗せした考え方であることを示しています。すなわち、このようなプライベートを削って「赤ひげ」のような医師であることが、古くから日本の理想的な医師像とされてきました。
「頑張っている= 真面目に働く」である日本
日本でも海外同様、「頑張っている」「努力している」ことが大切ですが、上記のような価値観から、日本では「頑張っている」ことと、「真面目に働いている」ことは、かなり近い意味で捉えられています。
近年、働き方改革により常識はずれな時間外労働や連続勤務には監査が入るようになりましたが、価値観というのはそう簡単には変えることはできません。頑張っていることと真面目に働くこととがほぼ同義である日本では、できる限り長く親身にベッドサイドで患者のことを診ている医師が最も評価されてきました。
オーストラリアでは勤務が終わればさっさと帰る
一方、オーストラリアでは厳密に勤務か勤務外か分けられていますので、勤務が終われば帰宅しなければなりません。オーストラリアでは、労働者の健康を守り、翌日の勤務に影響がでないように労働環境について法律で細かく管理されており、違反した場合には雇用主に厳しい罰則が課せられます。そのため、やる気のある人は残って仕事をしても良いわけではないですし、重症患者がいても患者を診る義理もなければ権利さえもありません。看護師も、勤務が終了した医師には何も聞いてきません。
ここで、私の経験をご紹介しましょう。ある日、引き継ぎ時に状態の悪い患者がいました。なかなか状況が改善せず、ずるずるとその場に残って患者を診ていました。日本では当たり前のことですし、むしろそうすることの方が良いことと捉えられます。しかし、これが思いもよらぬ結果を引き起こしました。
一つは、勤務中の他の医師の機嫌が悪くなったことです。おそらく、自分で重要患者を診て指示を出したかったのでしょう。立場が上の私がいるせいで、口出しできないことに不満を持ったのだと思います。
もう一つは、私が上司から注意されたことです。次の日も勤務がある私がその場に残ることは、次の日に影響が出る可能性を示唆してしまいます。たとえ「私は大丈夫だ」「明日には何の影響も残しません」と言い張ったところで、研究で「悪影響あり」と示され、法律で決められた以上、時間外に勝手に労働し居残ることは良いことでも自由なことでもなく、歴とした「悪」なんですね。
努力は実績で表現する豪州
前述の通り、日本では真面目に働くことが頑張って努力していることであり、大切な評価項目になります。一方で、オーストラリアでは働くことと努力していることは同義ではありません。そのような努力は、実績で示さなければなりません。
実績の一つは、資格です。例えば、日本には日本周術期経食道心エコー(JB-POT)という試験がありますが、その資格の有無にかかわらず麻酔科医であれば心臓麻酔時に経食道心エコーを行いますし、集中治療室でもそのような資格のない医師が超音波検査を用いて治療方針を決定することがあると思います。
一方で、私が勤務したオーストラリアの病院では、超音波検査も資格がないとその検査結果は正式なものとして認められません。術中もわざわざ資格を保持した循環器内科医が心エコーのために手術室まで来ますし、集中治療室でも胸水の有無を確かめるためだけでも技師が超音波検査を施行し放射線科医がレポートを残します。資格のない人が自分で行なった超音波検査を元に治療方針を決定してはならないのです。そのため、同じ集中治療医であってもそれらの資格を有している人は「公式」にできる仕事が増え、重宝されるわけです。
もちろん、研究も実績の一つです。日本では、臨床医が研究をプラスで行なったところで、それがポジションや給料に関わることは殆どありません。敢えて挙げるならば、大学の教授といった限られた組織のごく一部のポジションを決める際に必要となるだけです。
一方、オーストラリアに限らず医療において世界をリードする国々では、研究を行い論文を書くことは臨床医であっても非常に大切なことであると認知されています。組織のトップに限らず、組織に採用されそれぞれの階級に昇進するために実績が必要となるため、医師は研究にも時間を費やし業績を上げる努力を日々しています。
また、博士や修士といった肩書きも「実績」として大きな意味を持ちます。そもそもアメリカやオーストラリアではそれらの学位を取得することがかなり大変であることに加え、それらの国々では研究に対するリスペクトが非常に大きいのが特徴です。執筆した論文数やジャーナルの格だけでなく、博士や修士を持っているということは、研究者としてだけではなく臨床医としてのポジションに大きく影響を与えます。
オーストラリアの医師像とキャリアパス
私がオーストラリアでレジストラとして勤務していた頃は1週間働けば1週間休みでしたし、フェローとしては勤務していた頃は1週間働いた後(1週間のノンクリニカルウィークという研究や教育などの自己研鑽期間を挟んで)1週間休みでした。
この休みの1週間は、何をやっても構いません。休みを家族と過ごしても良いですし、自分の医師としてのスキルアップに費やしても良いのです。患者を診ること、臨床医として現場で「働く」ことの他にも臨床医としてすべき事があるのでそれを磨きなさい、というのがオーストラリアのスタンスです。
現場で働くことが全てではないため、体力が落ち始める30代、40代を過ぎても、まだまだ医師としてやるべき事は多く、目指すべき姿は高いと言えます。一方で、頑張って毎日必死に働いていれば認められる日本とは異なり、それなりの実績を残していかなれば評価もされませんし、ある程度のポジションを得ることもできません。オーストラリアは、医師の休みが多いことで有名ですが、彼らは意外と(?)このプライベートの時間を削って医師としての自己研鑽に励んでいます。
すなわち、患者のために奉仕する修道士としての医師像ではなく、ある程度自分の価値を高めて自身を売り込む、競争社会人としての医師像を求めなければなりません。
日本のスタイルは悪いのか
現在働き方改革という名のもとに、これまでの悲惨な日本の医師の勤務実態にメスが入りつつあります。医師も一人間であるため、最低限人間らしい生活を送らなければなりません。しかし、果たして何をどこまで欧米のスタイルを真似る必要があるのでしょうか。
私が留学していたハーバード大学院には、医療従事者に限らず世界中から熱い想いを持った若者が集まっていました。ある日、日本の医療の現状について議論したことがありました。すなわち、医師として36時間連続勤務もありますし、月に半分以上は家に帰れない医師もいることも伝え、どのように感じるかを聞いてみたのです。予想通り、殆どの友人は「可哀想」「人間の生活ではない」といった声と共に、「精神的にも肉体的にも疲労した状況で正しい処置や判断が下せるとは思えない」「患者に害が及ぶ」といった意見が大多数でした。
そこで私は尋ねました。
「あなたの家族が手術を受け、術中に合併症を起こし危険な状態になり、術後集中治療室に入室したときの事を考えて欲しい。術中からあなたの家族を管理していた麻酔科医が、術後も帰らず集中治療室のベッドサイドで徹夜で管理している姿を見て、どう思うか。」
「次の日も仕事があるのに残って必死で看病し、翌日の仕事に影響が及ぶかもしれない医師を見て、馬鹿だな、医師として失格だと思うのか。それとも、自分の家族をそこまで診てくれて嬉しいと思うのか。」
すると、皆口を揃えて「嬉しい」と言うのです。ハーバードまで行って、予後というものを数値化し研究で推し測ることを是としている人達が、自分や家族のことになると葛藤を覚えた訳です。
医師が相手にするのは人間です。病気単体ではありません。予後を最大限良くすることへの努力は必要ですが、人間(患者)としての満足度はそれに負けず劣らず重要なポイントになります。
まとめ
今回は、昨今話題となっている「医師の働き方」を考える上で大切となる、日本とオーストラリアにおける医師の評価基準やスタンスの相違点について解説しました。違いは多々ありますが、何が正しいのかの判断は難しいですよね。それぞれ、その環境や価値観に適した答えを自分なりに見つけるしかありません。私の思想を押し付けることは以ての外ですが、私の経験をシェアすることで、外の世界を見て自分で考えたいと思う人の手助けができれば、これ以上の幸せはありません。
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