以前、臨床と研究の狭間で悩んでいる医師を対象に、「臨床と研究の両立は必要か」と題し、両立することのメリットとデメリットについて記事を書きました。今回は、臨床と研究のどちらか一方を選択する上で、知っておいて損のない、両者の相違点について考察したいと思います。
臨床
個人が相手
当然ですが、臨床医というのは病気で困っている患者本人を診ます。同じ疾患であっても個々の患者で病気の経過も異なりますし、治療への反応性も異なります。また、疾患だけでなく精神的負担や社会的背景なども含めて対応する必要がありますので、臨床能力とは医師としての知識・技術だけでなく、社会性やコミュニケーション能力が必要になります。
M&M
ご存知の方も多いかと思いますが、Morbidity and Mortalityの略です。不幸にして起こってしまった合併症(集中治療領域では、心停止や緊急ECMOなど)や死亡した症例について、院内(科内)で検討を行います。「診断や評価に遅れはなかったか」「治療・介入に遅れはなかったか」「容体悪化の兆候を捉え、迅速に反応できていたか」「情報は正確に伝わっていたか」「エラーはなかったか」「適切なスタッフが対応していたか」といった観点から振り返りを行います。教訓を将来の診療に生かすための議論であり、n=1を細かく検討していきます。
M&Mは、個人を相手にしていることがわかる最たる例だと思います。当時の状況に関して驚くほど反省点が見つかりますし、大規模研究でやっと有意差の出た医療(いわゆる、evidence-based medicine)は現場ではそこまで重要で無い(というより、その他にもっと改善すべき点が多々ある)ことに気づきます。事故というのはミスや過失が組み合わさって起こりますし、集団で効果を観察する研究結果をある環境下の個人にどのように落とし込むべきだったのかについても、複合的に考えなければなりません。
迅速な判断力
現場で最も大切なことの一つは、時間軸です。研究で「是」と証明された「正しい」治療であっても、時間の遅れによっては無意味になりますし、その治療のために限られた資源や人材が費やされ他の重要な介入に遅れが生じ、患者観察が疎かになる位であれば、そのような「正しい」治療をしない方が目の前の患者にとっては「是」になります。
現時点での教科書的事項や研究結果に加え、上記のような時間軸、物質や人材といったリソースを全て加味してその時々で総合的に判断しなければなりませんし、その判断自体が患者予後を左右します。おそらく評価(スコア化)は難しい領域ですが、このような迅速な判断力は臨床医としては非常に大切な能力になります。
感謝はされど、名声はない
正直、「臨床医個人の力で患者が治っている」なんてことは(優秀な外科医を除けば)殆どありません。しかし、知識や技術、判断力により患者の増悪を阻止することはできるかもしれません。そして、やはり個人個人に対応しているということが大きく関与しているのか、感謝される機会が増えます。患者・家族説明を繰り返すだけで、「ありがとう」と言われることも少なくありません。そう言った「感謝される」という意味では、仕事のモチベーションを保ちやすいかもしれません。
一方で、余程腕の良い外科医といったごく一握り以外は、基本的に臨床医に名声はありませんし、賞賛もされません。名声を手にいれる条件としては、多数を相手にし、世間から評価され、著名にならなければなりません。臨床医が関わった個人の予後がその臨床医の成果かどうかは統計学的に判断しにくいため、マスコミなどを介した別の活動をしない限りは個々の臨床医が世に出て名声を得ることは基本的にありません。
労働者
臨床医は基本的に労働者です。あくまでも労働して、それに対して雇用主や組織から対価が支払われます。患者に対して真摯に向かってさえいれば何をやっても許される訳ではありませんし、組織のために働かなければ給料は発生しません。殆どの病院では「出来高」なんて制度は採用されておらず、簡単に言えば時給で給料が発生している労働者に過ぎません。
研究
集団で観察
疫学を勉強することで見えてきますが、特に臨床研究は集団を相手にその「効果(effect)」を推定しようと試みます。ある薬剤Aや危険因子Bの、集団に対する効果や影響を調べようとするのが最終的な目的です。そこには、臨床医のような個人への視点ではなく、全体として捉える力が必要になってきます。
少し話は逸れますが、ハーバード公衆衛生大学院には、イチロー・カワチ先生という有名な先生がおられます。私も学生時代、カワチ先生の講義を受講させて頂きました。講義の内容の一部は、著書「命の格差は止められるか」という本でも読むことができます。以下、一部抜粋させていただきます。
「岸辺を歩いていると、助けて!という声が聞こえます。誰かが溺れかけているのです。そこで私は飛び込み、その人を岸に引きずりあげます」
「心臓マッサージをして、呼吸を確保して、一命をとりとめてホッとするのもつかの間。また助けを呼ぶ声が聞こえるのです」
「私はその声を聞いてまた川に飛び込み、患者を岸まで引っ張り、緊急処置を施します。すると、また声が聞こえてきます。次々と声が聞こえてくるのです」
「気が付くと私は常に川に飛び込んで、人の命を救ってばかりいるのですが、一体誰が上流でこれだけの人を川に突き落としているのか、見にいく時間が一切ないのです」
すなわち、川の下流で医療を施す臨床医だけでなく、上流で起こっている根本的な問題点を探り対処する人材が必要ということです。このような上流での問題点を集団として洗い出し、対処することは疫学の醍醐味と言えるでしょう。
集団としての問題点を見つけ、集団として効果がある解決方法を見つけることから、必然的に臨床医よりも「多くの人」を助けられる可能性が高くなります。
ただし、注意したいのは、研究とはあくまで統計学を用いて背景の似る集団と集団を比較しているのであって、個人への効果を評価している訳ではありません。極論を言ってしまえば、少数の個人を見捨てることになっても、全体として有意に利益があればそれは「効果あり」となります。最近は、ゲノム解析により個々の患者に合った「オーダーメイド」医療が期待されていますが、結局はそのような遺伝子を持った集団に対する統計学を用いた研究結果に基づいているため、やはり同じことになります。
独創性、発想力
臨床医が分単位・秒単位の総合的判断力が必要であるのに対し、研究者は独創性や発想力が必要になります。世で広く認められるような研究を遂行するためには、臨床研究であれば疫学や統計学といった基礎知識は元より、臨床現場で困っている問題点や疑問点を研究という分野で拾い上げる能力、他人が信じて疑わない事項を疑うことができる能力、他人よりも早く気付き行動する能力といったものが必要になります。そう言った意味では、一般企業における開発部門に近いのかもしれません。
名声、賞賛
研究においては、統計学的に効果や関係性を評価します。研究計画が妥当でデータに信頼性があり、解析方法が正しければ、その結果は論文という形で世に送り出され、世間の目に触れます。集団を相手にしている論文のインパクトが強ければ国や団体から莫大な補助金が出ますし、それがまた世間の目に触れ、賞賛されます。有名になれば有能な人が集まり補助金や研究費を獲得しやすくなりますので、有名な研究者は更に質の高く社会的インパクトの大きい研究を行うことができます。この循環により、(特に海外の)研究者は、臨床医と比べて社会的名声や賞賛を受けやすいと言えます。
一方、前述のように研究とは集団を相手にした業績であることが多く、その恩恵を受けた個々から感謝されることはあまりありません。それ故、大義名分を元に自分を突き動かし続けるか、自己探究心にそのモチベーションを頼らざるを得ません。
労働者?
研究者であっても、どこかの組織に属し給料をもらっている限りは、労働者であることには変わりありません。しかし、臨床医とは異なり「出来高払い」的な要素も存在します。特に海外では、将来性のある研究に対して国や団体から(日本より1〜2桁多い)多額の補助金や研究費が支払われることもあります。日本と異なりそのお金の使い道に自由が利きますので、学会費や研究の必要な経費だけでなく、新たな人材を雇い人件費として使用することも、自分の給料に充てることだって可能です。そう言った意味では、ある程度のレベルの研究者になれば臨床医よりは時間給的な労働者としての要素は少ないかもしれません。
まとめ
今回は、臨床医と研究者についての仕事の違いについて、その本質的な部分も含めて考察しました。多くの医師は、臨床医と研究を選択することができますし、並行して行なっている人もいます。一方で、中途半端になるからと言ってどちらか片方を選択する医師もいます(記事「臨床と研究の両立は必要か」参照)。選択に悩んでいる人にとって、上記のような視点を持っておいても損はないでしょう。
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