近年人気のあるMPH(公衆衛生学修士)ですが、どのような使い道があるのでしょうか。特に海外でMPHを取得するとなると、金銭面や家族への迷惑など、多大な犠牲も伴います。一方で、MPHは現在の医師が目指すべき学位だといった意見や、MPHなんて意味がない、などといった、極論もよく聞かれます。 ここでは、特に医師(MD)が海外でMPHを取得することで開ける道といいますか、どのような使い道があるのかについて書いていきたいと思います。
医療政策側に立つ人への道
MPHといっても、その内訳は様々です。ハーバード公衆衛生大学院(HSPH)であれば、Global Health, Health and Social Behavior, Health Management, Health Policy, Occupational and Environmental Healthといったprogramには、健康を広い視点から眺め、問題点の抽出と改善策の模索・提言を行なうことを目的とする生徒が在籍します。 ある意味”広い視点”から世の中を見ることができ、”たくさんの”人を救うことができる可能性があるため、公衆衛生学の醍醐味の一つと言えるでしょう。システムづくりという点ではアメリカは日本より随分と優れているため、留学してまで学ぶ価値はあると思います。 私の同期では、世界銀行や一般企業出身のnon-MD、MDではあるが臨床を離れている医系技官が、これらのprogramに在籍していました。また、臨床研究の手法を主に学ぶために来ていた(上記のprogram以外に在籍していた)MDであっても、システムづくりに魅せられ卒業後に医系技官になった人もいました。
臨床研究をガンガンしたいMD
HSPHであれば、Epidemiology, Quantitative Methods, Clinical Effectivenessといった、MDが行うような臨床研究の手法を掘り下げて学ぶprogramが存在します。 日本では、臨床医が「1. 研究の立案、2. プロトコールの作成、3. 倫理委員会への提出書類の作成、4. 患者説明・同意取得、5. データ収集、6. 統計・解析、7. 論文作成」といった一連のプロセスを全て臨床業務の合間に行なっているのが一般的です。 このうち、MPHで学べるのは、主に1. 研究の立案と6. 統計・解析です。この領域を学ぶという意味では、MPHは有用でしょう。 ここで、MPHについてよく耳にする意見を考えてみます。
噂その1: 所詮はmaster degree?
この文面は、「PhD(博士)と比べて」という文章が隠れています。
アメリカでPhDを取得するのは非常に大変です。Masterと比べ、その門も非常に狭く、入学するための倍率はとてつもなく高いです(1つの programに定員1名など)。例えば、ハーバードのMPHの学生であっても、同大学のPhDの学生になるのは至難です。大学側も本気なので、PhDの学生には”給料”がでることがあります(!)。 私も1年間修士課程で学び、博士課程の学生とも触れ合いましたが、正直言って博士と修士では「レベル」が違います。
すなわち、修士でも疫学や統計の基本は知っているが、あくまで基本のみです。その意味では、「所詮はmaster」という文面は間違っていないと思います。 一方で、PhDレベルの知識がMDに必要なのか、という意見もあります。確かに疫学にしても統計にしても、PhDの学生とは桁違いでしたが、MDが行うような臨床研究にその程度の知識が必要か、と言われれば、”No”に近いのではないでしょうか。学問的には正しくても、現在の主な医学系雑誌ではそこを求めていません。現場で働く人間がスッと理解できるような臨床的解釈も重要となります。嘘もいけませんが、正論を追求しすぎて折角のデータが無駄になる、貴重な研究がボツになるといった状況も、どうかと思います。 MPHであっても、そのような正式な教育を受けてない人よりは数段理解が深いですし、大半の医学論文で使用するような疫学・統計であれば十分のことが多いです。もちろん解決できない問題に直面することもあるとは思いますが、masterなら専門家(PhD)に質問・会話できるだけの基礎知識と共通言語を知っているので問題ありません。
また、PhDを取得するには4年程度必要になります。特に海外のPhDは非常に負荷が大きく、臨床の片手間に行うものではありません。すなわち、PhDのための留学なら最低4年は臨床から離れることを意味します。臨床能力とは、一度培えば一生維持できるものではありません。(年齢的にも特に大切な時期に)4年も臨床から離れることは、臨床医としてのキャリア・能力を著しく傷つけてしまいます。 そういった意味では、1~2年で取得できるMPHは「手軽」な資格といえます。
噂その2:MPHを取ったからといって良い論文が書ける訳ではない?
答えから言って、”Yes”でしょう。良い大学に行ったら良い企業に就職し出世する訳ではありません。優れたプロテニスプレーヤーを数多く輩出したテニスクラブに入会したら、必ずテニスが強くなる訳ではありません。MPHを取得することが良い研究者に直結する訳ではないことは、不思議なことではありません。 一方で、MPHは良い研究をするための必要条件でしょうか?これもおそらく違います。世にインパクトのある研究を次々と送り出している人物が、必ずしもMPHを持っている訳ではありません。 では、MPHは不要なのでしょうか。そうとも限りません。前述したように、今の医学論文に必要とされる多くの疫学・統計学的知識を得ることができますし、専門家とdiscussionできる共通言語も身につきます。もちろん、最終的には経験が大事ですので、実際に研究を行うことが重要にはなりますが、我流ではなく「ちゃんとした教育を受ける」という意味では意義のあるプロセスだと思います。 ただし、MPHはあくまでもツールです。どのように活用するかまでは教えてくれません。MPH在籍中にアウトプットも訓練できるのでしょうか。それはまた別に記事にしたいと思います。
アメリカで臨床医になりたい人
毎年ある一定数存在するのが、アメリカで臨床医になるため、レジデントになるための、移行期間としてMPHに所属するMDです。疫学や統計といった学問に強い興味がある訳ではありませんが、以下のようなメリットがあるので在籍しています。
コネクションができる
MPHのメリットの一つが、現地のMDとコネクションができることでしょう。HSPHでは、授業の一環として実際に現地で研究を行う”Practicum”というカリキュラムがあります。そこで実際の臨床研究を行なっているチームと関わることができるため、働き方によっては「欲しい人材」と思われるかもしれません。また、当該施設で採用されなくても、強力なrecommendation letterを書いてもらうことが可能になります。 MPHの学生であることは、ある程度のcompetitionを勝ち抜いてきたことを意味します。ですので、親しくなりたい、近づきたい人間がいる場合、突然メールを送るなりコンタクトをとった場合、返信してくれる、会ってくれる可能性が高いことは特筆すべきです。見ず知らずのどこの誰かもわからない人からのメールには返信しませんものね。このようにコンタクトをとって近づき、その人の下で研究などをすることで、自分のスキルアップとともにコネクションを作ることが可能です。
履歴書(CV)が良くなる
履歴書(CV)の見栄えが良くなります。アメリカでレジデントとして採用されるための一つの目安として、「卒後3年」や「卒後5年」が一つの壁と言われています。すなわち、卒後3年や5年を過ぎるとマッチする可能性が低くなる、というものです。 しかし、卒後3年や5年を過ぎていたとしても、その間に真っ当な理由があれば例外となります。MPHはその十分な言い訳になりますし、むしろプラスに働くかもしれません。他のMDには持っていない知識を持っている訳ですから。 日本にいながらアメリカでレジデントをするための準備をひたすら行い、年月が経ってしまうと、年々採用される可能性は低くなります。そう行った意味では、MPHに在籍することでコネクションも作りやすくなり、様々な現地の情報が入り、卒後時間が経過した理由づけにもなり、かつ本来のMPHの知識を得られるという、一石三鳥、四鳥のような話です。 以上のように、アメリカで臨床医として働きたい人がも、MPHは考えるに値する選択肢と言えます。
「箔(はく)」をつけたい人
はくをつけるためだけにMPHなんて、ミーハーといいますか、否定的な意見がありそうですが、一概にそうは言えません。世の中には、そのような「はく」が重要になることも(残念ながら)あります。 例えば、カナダであればある一定のポジションにつくためにはMDだけではダメで、何かしらのそれ以上の学位(修士なり博士なり)が必要となります。その意味で、最短で1年で取得することのできるMPHはカナダのMDにとって非常に魅力的です。PCEというコースを毎年夏だけ3回受講してもMPHはもらえるため、夏には大勢のカナダ人がHSPHにきます。 日本も例外ではありません。MD以外の学位がなければスタッフ(助教以上)になれない大学病院もありますし、学位がなければ部長クラスになれない市中病院も数多く存在します。 「留学」そのものに対して過度な羨望の眼差しが未だに少しは残っています(行ってみるとそうではないことが多いことに気づきますが)。そのような世の中が良いか悪いかは別として、現状の世界に生きる私たちにとっては、このように箔を付けるためのMPHという選択肢を否定することはできないでしょう。
さいごに
いかがでしたでしょうか。私が思う、MDが海外のMPHをとることで開ける可能性のある「道」について書きました。上記のどれかに当てはまればMPHを考慮する価値があるかもしれません。また、それ以外の方でも何かしらの使い用途があるかもしれません。この記事が、進学を悩まれている方の一助になれば幸いです。
コメント
コメント一覧 (9件)
[…] 学生で大丈夫なの?と思われるかもしれません。安心してください。ココで述べたように、PhDの学生はレベルが非常に高く、正直「コイツら教授か?」と思うくらい何でも答えられます。基本的に講義にも参加してますが、時には教授がTAに聞いてTAが答える、といった光景も何度か目にしました。 […]
[…] 特にPhDを持っていると、海外では尊敬の眼差しで見られます。ココでも説明していますが、海外でPhDを取得するのは非常に難しく、アカデミックで食べていけることを意味しています。そのため、留学時すでにPhDを持っていれば、ラボで認められやすく、最初からある程度の仕事を任せてくれる可能性があります。 […]
[…] 以前で説明したように、MPHに来る学生の目的は様々です。純粋に知識を深めたい人もいれば、評価・成績(GPA)の方が大事な人もいます。そのため、講義の内容だけでなく、宿題や試験の有無、評価方法によって受講するクラスを選択する人もいます。 […]
[…] 記事「MPHの使い道」を参照して頂きたいのですが、特にアメリカでは修士(master)と博士(PhD)では「格」が違います。逆に言えば、その分野を極めるためにPhDを取得し学問として追求したい人が、まずはMSに進む、と考えることもできます。 […]
[…] 以前、「MPHの使い道」と題した記事を書いたことがあります。かなりの反響だったのですが、今回はその兄弟記事として「PhDの使い道」と題した記事を書いてみたいと思います。ただし、今回は日本のPhDに焦点を当てます。当たり前の話から、ちょっと変わった視点まで、いろいろな角度から考えてみたいと思います。 […]
貴重な記事をありがとうございます。
現在日本で大学院に通いながら放射線治療医をしている者です。
放射線治療の臨床業務及び研究を行ううちに、まだまだブラックボックスが多く、エビデンスの確率されていない領域であると痛感しています。今後エビデンスを積み上げるために臨床試験に詳しくなれればと思い、MPH留学について興味を持つようになりました。
将来臨床研究をガンガンできればと思っているのですが、実際にMPH留学では臨床研究のデザインの方法などはどのくらい学ぶ機会がありましたでしょうか。また、コースはやはりCLEが無難なのでしょうか。
ご多忙の折恐縮ですが、ご教授頂ければ幸いです。
コメントありがとうございます。
HSPHの修士課程は1年または2年ですし、やはり基礎的な学問的なところから勉強します。それらをいつどのように自分の研究デザインに応用するかは、人それぞれかと思います。アウトプットの機会を求めてラボに在籍する人もいますし、在学中は学問に専念して卒業後にラボに属する人もいます。
CLEは臨床医のためのクラスという宣伝文句ですが、HSPHの場合はクラスを自由に選択できるため、そこまでプログラムによる違いはありません。どのプログラムに所属していても、聞きたい講義は聞くことができます。他の記事でも紹介していますので、ぜひご参考にしていただければ幸いです。
ご返答ありがとうございます。
返信が遅くなり、申し訳ありませんでした。
在学中にラボに在籍することもできるのですね。
また、講義選択の自由度は高いのですね。
他の記事もぜひ参考にさせて頂きます。
ありがとうございました。
[…] 在籍中に思うことは、1年という期間は非常に短いということです。正直、1年で学べることなんか、ホンノ僅かでしかありません(「MPHの使い道」参照)。そのため、当時は65単位で2年間在籍できる同期への羨望もありましたし、引き続きボストンに研究職として残ることさえ考えました。 […]